"努力しない人間は生きていてもしょうがない"

先週、近況報告を兼ねてブログを再開したという連絡を家族や友人にする。いろいろ反応はあったのだが、その中で前の会社の尊敬する先輩から非常に的確な指摘を受ける。「軸というのか、真正面から開示できる、しなやかな自信がまだ不十分な感じを受けるてしまった。」と、さらに「まずは、本気で自分は素性がよくて、頭もいいし、運もいい、とシンプルに信じてはどうでしょうね」、「すこし自身の懐の深さを信じた方がよいよ。」と、自分の状況を見透かされ、怒られながらも期待されているというか、心地よい叱咤激励を受ける(いやに変な時間にレスポンスが早いなぁと思っていたら、どうやらサンフランシスコに出張中、ビールを飲みながらのようで煽りにも拍車がかかっている模様)。

酔っ払いを相手にしても仕方ないし、この指摘については思うところがあり、「この返事はあとでブログに書きます。」と返事をして、メールでのやり取りを打ち切る。


思うところがあるというのは、その日飛び込んできた、最高裁での池袋通り魔殺人事件の判決、犯人の死刑が確定したというニュースに関連して。

覚えているだろうか? 99年9月8日、当時23歳だった青年が、池袋の東急ハンズ近くで包丁とハンマーを振り回し、通行人を死傷させたというショッキングな事件である。詳細はいろいろなところに載っているので、そちらを読んでもらいたいのだが、この事件は7年以上経った今でも僕の心の深いところで影を落としている。その理由は、単なる事件性だけでなく、犯人の不幸な境遇、自分と同い年だったということ、そして何よりも彼の狭いアパートに残されていた走り書き、「努力しない人間は生きていてもしょうがない」(確か報道当初は「努力しない人間は死んだほうがましだ」とよりきつい表現で発表されていたことを覚えてる)という言葉がとても重くのしかかって来るからだ。

「努力しない人間は価値がない」、誰もが一度は心の中で自問したことがあるのではないだろうか?そのプレッシャーにさい悩んだことがないだろうか? きっと彼は、万年床の中で天井を見上げて、そして新聞配達をしている時にも、この言葉を何度も何度も繰り返したに違いない。そう考えるたびに気持ちがとても重くなる。これは他人に対する思いだけではなく、本当は自分自身に対する怒りであったんだろうと思う。そのやり場のない怒りがこのような悲惨な事件を起こした。事件の被害者やその家族のことを思えば、決して彼を擁護したり同情したりはしたくないし、彼は社会の被害者だったなんて答えにならない答えで片付けたくもない。ただ、「努力しない人間は・・・」と絶望した彼は僕と同じことを思っていたことに、大きなショックを受けたのである。事件のあった99年9月、僕は新入社員としてセールス部門に配属されて3ヶ月目であり、本当にここでやっていけるか自信がなかった。上司や先輩達の仕事振りはスーパーマン的に見えたし、どうすればああなれるのか想像もつかなかった。お客さんとのコミュニケーションの取り方も分からなかったし、そもそも仕事自体が楽しくなく落ち込んでいた(実際はこの後すぐに自身のライフワークともなるプロジェクトを担当することができ、生き返ったのだが)。そんな状態だったので、なおさらこの事件と彼の発した「努力できない人間は・・・」にシンパシーを感じた。

分かってもらえるかと思うが、僕の場合、この問いは決して他人に対してではなく、常に自分自身に対して向けられているのである。努力できない人間は自分自身なのである。そして、僕はそのプレッシャーに完全に押しつぶされることはない。プレッシャーに打ち勝つことはできなくても、それと上手く折り合いをつけながらコントロールして生きていくことができる。

今まで家でも学校でも会社でも本当に自由に生きてこれた。これといって大きな挫折もない。小さい頃は親に怒られたり勉強しろと言われたことは一度もないし、学校や会社から抑圧されたこともなく常に自分の裁量で自由にやらせてもらってきた。冒頭に書いた先輩とのメールのやり取りとこの事件のニュースをシンクロさせ、今なお「努力できない人間は・・・」と自分に問いかけてプレッシャーを感じるのは、自分がとても恵まれているからだ。こうして恵まれている分、僕はこの事件の犯人に対して強い責任を感じる。もっと一生懸命に生きなくちゃいけないと思う。

「努力しない人間は生きていてもしょうがない」 この言葉は今後もずっと僕に重くのしかかる。


と書くとかなり暗い話に読めてしまうが、毎日楽しく平凡に生きてるので、ご安心を。最近「明確な目的」と「それに対する努力」、「努力を継続できるモチベーション」、この三つがあれば、基本的に何でも達成できると思ってたりする。